生まれは横須賀。その後仕事の関係で茨城県水戸に移り2歳上の兄と小学校、中
学校時代を過ごす。
17歳の時には瀬戸内海にある海軍兵学校に入校。そこで終戦を迎える。
終戦の時の日記などが少し残っているが、同期の多くが戦争で亡くなったこともあり、非常に悔しかったようだ。
「兵学校で鍛えた腕は遂に用いる時はなかった。然しこの教育で余は実に得難きものを得た。余は之を必ず余の生涯に於いて生かすであろう。」といっ た言葉があった。
その後は東北大学に入学し、助手の時に仙台の教会で幸子と知り合い結婚。
助手をやった後は助教授の推薦もあったが、日立制作研究所へ。
理由は企業の方が研究費が多いという理由から。。。
日立製作所では半導体に関する様々な研究に取り組み、100個以上の特許を出願
している。
妻の幸子からは「優しいけれど頑固な面もある。絶対に自分の信念を曲げなかった」と評されている。
これを表すようなエピソードが日立制作研究所の時にある。
当時、選挙の際は企業ごとに誰を押すということが決まっていたようなのだが、その中に数人いた企業の意に沿わずに自分の意志で投票する変わり者の一人だったそうだ。
また業務においても会社の意向に沿わない行動をして、仕事を外されたことがあった。
このことで正敬は非常に落ち込んでいたようだが、上司に非常に好かれていた正敬は「少し待っていなさい」と言われ、言葉のとおりその数年後には国家プロジェクト「超LSI技術研究組合」に抜擢される。
これは当時のIBMに対抗するため、富士通、日立製作所、三菱電機、NEC、東京芝浦電気の5社が競合という枠を乗り越え、参加研究者100名で 結成された国家プロジェクトである。(総予算700億円、うち290億円を国が出資)
※超LSI技術研究組合とは
1979年度に,超エル・エス・アイ技術研究組合の活動は一部の研究を除き終了した。
「将来のコンピュータシステムの要となる超LSIを開発する」という目的で,「超エル・エス・アイ技術研究組合」が1976年に設立された。
総予算は700億円。うち約290億円が「次世代電子計算機用大型集積回路開発促進補助金制度」からの補助金(国の出資)で,4年計画のプロジェク トである(一部の研究は7年間まで延長)。
参加企業は,コンピュータ総合研究所(富士通,日立製作所,三菱電機),日電東芝情報システム(NEC,東京芝浦電気)の2グループ5社。
通商 産業省工業技術院電子技術総合研究所と日本電信電話公社も協力した。
これは米IBM社の未来のコンピュータ計画「Future System」(FS)に触発された国家プロジェクトである。前年の1975年に,コンピュータの100%資本自由化が実施され,日本のコンピュータ産業 に対する危機意識が産官に強かったことが背景にある。
当時はLSIの最小加工線幅(設計ルール)がまだ数μmの時代1)。MOS LSIの世代交代期で,新たな製造技術や設計・評価技術が必要とされていた時期である。
半導体技術は米国が先行しており,半導体製造装置もほとんど米国に 依存していた。
研究組合の研究は,コンピュータ総合研究所と日電東芝情報システムの各研究所,および共同研究所の3カ所が担当した。
特に,共同研究所の成果 は,学会発表200件(組合全体では400件)など著しい。
この共同研究所は,研究施設をNEC中央研究所(川崎市高津区)の建物内に設け,5社から約100人が参加し,4テーマ6研究室体制で行われた。
研究テーマの選定には,「4年間で成果が出ること」「超LSI生産のための基礎的・共通的技術」(図1)に限定した(共同研究所所長の垂井康 夫氏への当時のインタビューから。以下同)。
参加企業がノウハウの流出を警戒したことが背景にある。
→※TECH ON 【電子産業史】1979年:超エル・エス・アイ技術研究組合より抜粋
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080801/155928/
その後、25歳で長女を、29歳で長男を授かる。
初めて買った中古車で妻や子供達、近所の人達ともよくドライブに行っていたらしいのだが、その車には床に穴があいており、いろは坂に行って坂が登れずに帰って来た事や、雨の日にワイパーが壊れ、紐で引っ張って動かした事など笑い話が数多く残っているそうだ。
やがて2人の子供達も結婚。子供の結婚後は娘の夫やその弟、母親達とも食事をしたり、麻雀をしたりと楽しい交流があった。
日立製作所を退職後は友人の会社で研究を指導したりしながらも、家族と旅行に行ったりするなどプライベートな時間も多く作れるようになったようだ。
家族や友人達と旅行に行った写真が多く残されている。
しかし、亡くなる3年程前からは妻野村幸子が痴呆症にかかり、つきっきりで看護をするようになる。
家族からは施設に預けることを進められるが、頑なに拒否し、ほとんど自分一人で看病をしていたという。
その時、娘の百合子に「結婚する時に教会で【健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これ を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?】という誓いをしたから」と話していたそうだ。
そんな看病の疲れもあったのか2003年には癌が発病し、手術を行うも末期という事でした。入院中の手帳にはお見舞いに来てくださった方々に対して感謝の文字がたくさん残っていました。
最期は娘が暮らす世田谷の家で看病を受け、発病から僅か3ヶ月後に世田谷の家で家族と愛犬のファービーに見守られなが息を引き取りました。
享年77歳でした。