野村正敬LIFE

LIFE of Masayoshi Nomura

1926/04/26~2003/07/23

PROFILE

野村 正敬
Masayoshi Nomura

1926/04/26~2003/07/23

LIFE

生まれは横須賀。その後仕事の関係で茨城県水戸に移り2歳上の兄と小学校、中 学校時代を過ごす。
17歳の時には瀬戸内海にある海軍兵学校に入校。そこで終戦を迎える。

終戦の時の日記などが少し残っているが、同期の多くが戦争で亡くなったこともあり、非常に悔しかったようだ。
「兵学校で鍛えた腕は遂に用いる時はなかった。然しこの教育で余は実に得難きものを得た。余は之を必ず余の生涯に於いて生かすであろう。」といっ た言葉があった。

その後は東北大学に入学し、助手の時に仙台の教会で幸子と知り合い結婚。
助手をやった後は助教授の推薦もあったが、日立制作研究所へ。
理由は企業の方が研究費が多いという理由から。。。
日立製作所では半導体に関する様々な研究に取り組み、100個以上の特許を出願 している。

妻の幸子からは「優しいけれど頑固な面もある。絶対に自分の信念を曲げなかった」と評されている。
これを表すようなエピソードが日立制作研究所の時にある。
当時、選挙の際は企業ごとに誰を押すということが決まっていたようなのだが、その中に数人いた企業の意に沿わずに自分の意志で投票する変わり者の一人だったそうだ。

また業務においても会社の意向に沿わない行動をして、仕事を外されたことがあった。
このことで正敬は非常に落ち込んでいたようだが、上司に非常に好かれていた正敬は「少し待っていなさい」と言われ、言葉のとおりその数年後には国家プロジェクト「超LSI技術研究組合」に抜擢される。
これは当時のIBMに対抗するため、富士通、日立製作所、三菱電機、NEC、東京芝浦電気の5社が競合という枠を乗り越え、参加研究者100名で 結成された国家プロジェクトである。(総予算700億円、うち290億円を国が出資)

※超LSI技術研究組合とは

1979年度に,超エル・エス・アイ技術研究組合の活動は一部の研究を除き終了した。

「将来のコンピュータシステムの要となる超LSIを開発する」という目的で,「超エル・エス・アイ技術研究組合」が1976年に設立された。
総予算は700億円。うち約290億円が「次世代電子計算機用大型集積回路開発促進補助金制度」からの補助金(国の出資)で,4年計画のプロジェク トである(一部の研究は7年間まで延長)。

参加企業は,コンピュータ総合研究所(富士通,日立製作所,三菱電機),日電東芝情報システム(NEC,東京芝浦電気)の2グループ5社。
通商 産業省工業技術院電子技術総合研究所と日本電信電話公社も協力した。

これは米IBM社の未来のコンピュータ計画「Future System」(FS)に触発された国家プロジェクトである。前年の1975年に,コンピュータの100%資本自由化が実施され,日本のコンピュータ産業 に対する危機意識が産官に強かったことが背景にある。

当時はLSIの最小加工線幅(設計ルール)がまだ数μmの時代1)。MOS LSIの世代交代期で,新たな製造技術や設計・評価技術が必要とされていた時期である。
半導体技術は米国が先行しており,半導体製造装置もほとんど米国に 依存していた。

研究組合の研究は,コンピュータ総合研究所と日電東芝情報システムの各研究所,および共同研究所の3カ所が担当した。
特に,共同研究所の成果 は,学会発表200件(組合全体では400件)など著しい。

この共同研究所は,研究施設をNEC中央研究所(川崎市高津区)の建物内に設け,5社から約100人が参加し,4テーマ6研究室体制で行われた。
研究テーマの選定には,「4年間で成果が出ること」「超LSI生産のための基礎的・共通的技術」(図1)に限定した(共同研究所所長の垂井康 夫氏への当時のインタビューから。以下同)。
参加企業がノウハウの流出を警戒したことが背景にある。

→※TECH ON 【電子産業史】1979年:超エル・エス・アイ技術研究組合より抜粋
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080801/155928/

その後、25歳で長女を、29歳で長男を授かる。

初めて買った中古車で妻や子供達、近所の人達ともよくドライブに行っていたらしいのだが、その車には床に穴があいており、いろは坂に行って坂が登れずに帰って来た事や、雨の日にワイパーが壊れ、紐で引っ張って動かした事など笑い話が数多く残っているそうだ。

やがて2人の子供達も結婚。子供の結婚後は娘の夫やその弟、母親達とも食事をしたり、麻雀をしたりと楽しい交流があった。

日立製作所を退職後は友人の会社で研究を指導したりしながらも、家族と旅行に行ったりするなどプライベートな時間も多く作れるようになったようだ。
家族や友人達と旅行に行った写真が多く残されている。

しかし、亡くなる3年程前からは妻野村幸子が痴呆症にかかり、つきっきりで看護をするようになる。
家族からは施設に預けることを進められるが、頑なに拒否し、ほとんど自分一人で看病をしていたという。
その時、娘の百合子に「結婚する時に教会で【健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これ を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?】という誓いをしたから」と話していたそうだ。

そんな看病の疲れもあったのか2003年には癌が発病し、手術を行うも末期という事でした。入院中の手帳にはお見舞いに来てくださった方々に対して感謝の文字がたくさん残っていました。
最期は娘が暮らす世田谷の家で看病を受け、発病から僅か3ヶ月後に世田谷の家で家族と愛犬のファービーに見守られなが息を引き取りました。
享年77歳でした。

略歴

1926年
出生
1943年11月(17歳)
海軍兵学校入校
1946年4月(20歳)
東北大学理学部物理入学
1949年7月(23歳)
佐藤幸子と婚約する
1949年 
日立制作研究所入社
1949年10月29日(23歳)
結婚
1951年4月(25歳)
長女誕生
1955年7月(29歳)
長男誕生
1974年7月(48歳)
長女結婚
1984年9月(58歳)
長男結婚
2003年7月23日(77歳)
他界

趣味

  • 囲碁
  • SF小説

住んだ場所

  • 生まれた横須賀あたり
  • 水戸
  • 海軍兵学校(瀬戸内海)
  • 仙台(大学)
  • 国分寺
  • 八王子
  • 初台
  • 世田谷の家

家系

  • 父:野村正雄(元茨城大学教授)
  • 母:野村恒子(元茶道、花道、料理教授)
  • 妻:野村幸子(元茶道教授)
  • 兄:野村正恒(元水産研究所)
  • 長女:水谷百合子
  • 長男:野村正宣
  • 孫:水谷真史
  • 孫:水谷周三
  • 孫:水谷圭佑

MOVIE

MOVIE-01

野村 正敬/LIFE STORAGE

LIFE STORAGEにて制作した動画。

MOVIE-02

野村正敬の声

愛犬のファービーを呼ぶ声

PHOTO

五軒町自宅にて。正恒と正敬(下)
  • 1933年1月4日
  • 8歳

五軒町自宅にて。正恒と正敬(下)

備前町自宅にて。正恒と正敬
  • 1934年8月
  • 9歳

備前町自宅にて。正恒と正敬

正敬とテル
  • 1934年10月14日
  • 9歳

正敬とテル

剣道部有志メンバー(2列目左から1番目)
  • 1943年9月
  • 17歳

剣道部有志メンバー(2列目左から1番目)

友人/杉山進
  • 1943年9月
  • 17歳

友人/杉山進

友人/三上清一
  • 1943年9月
  • 17歳

友人/三上清一

もっと見る

友人/郡司由清
  • 1943年9月
  • 17歳

友人/郡司由清

友人/矢口浩
  • 1943年9月
  • 17歳

友人/矢口浩

野村正敬
  • 1943年9月
  • 17歳

野村正敬

海兵合格の頃
  • 1943年11月1日
  • 17歳

海兵合格の頃

海兵合格の頃(左から1番目)
  • 1943年11月7日
  • 17歳

海兵合格の頃(左から1番目)

海軍兵学校に入学
  • 1943年
  • 17歳

海軍兵学校に入学

第一回第一分隊3号(最後列右から3番目)
  • 1944年3月
  • 17歳

第一回第一分隊3号(最後列右から3番目)

第一回第一分隊2号(最後列右から6番目)
  • 1944年9月
  • 18歳

第一回第一分隊2号(最後列右から6番目)

西生徒館中庭
  • 1944年11月
  • 18歳

西生徒館中庭

東北大学理学部物理教室卒業生
  • 1949年3月25日
  • 22歳

東北大学理学部物理教室卒業生

林研究室の卒業コンパ
  • 1949年3月25日
  • 22歳

林研究室の卒業コンパ

研究室前にて。卒業も感無量の態?
  • 1949年4月
  • 23歳

研究室前にて。卒業も感無量の態?

小松兄と共に
  • 1949年
  • 22歳

小松兄と共に

婚約式-1
  • 1949年7月16日
  • 23歳

婚約式-1

婚約式-2
  • 1949年7月16日
  • 23歳

婚約式-2

婚約式-3
  • 1949年7月16日
  • 23歳

婚約式-3

東北大一教職組にて 作並温泉へ
  • 1954年
  • 27歳

東北大一教職組にて 作並温泉へ

東北大学助手の頃
  • 1960年
  • 33歳

東北大学助手の頃

仙台 五ツ橋協会の方々と (東京に行く前に)
  • 1960年
  • 33歳

仙台 五ツ橋協会の方々と (東京に行く前に)

長女(百合子)結婚式
  • 1974年7月27日
  • 48歳

長女(百合子)結婚式

相模湖ピクニックランドにて
  • 1981年4月11日
  • 54歳

相模湖ピクニックランドにて

孫2人(真史・周三)になりました

長男(正宣)結婚式
  • 1984年9月11日
  • 58歳

長男(正宣)結婚式

お正月(世田谷にて)
  • 1990年1月1日
  • 63歳

お正月(世田谷にて)

湯沢にて
  • 1996年11月9日
  • 70歳

湯沢にて

EPISODE

EPISODE-01

頑固な人でした。

妻  野村幸子

頑固な人でした。絶対自分の信念を曲げない。
日立に努めている人は選挙でこの人に入れるというのが決まっていたのだが、何人かだけ好きな人に投票する人がいたが、その何人かでした。
また車の運転は好きで中古車、新車と何台も乗っていましたが、"車はスバル"と決めていた様でこれも頑固に守っていました。
子供が好きでとてもよく遊んでくれました。

EPISODE-02

やさしい父親で怒ったことはなかった。

長女 水谷百合子

やさしい父親で怒ったことはなかったです。
仕事が大好きで研究熱心でした。お酒が好きで皆と飲むのが好き。子供っぽいというかふざけるのが大好き。
水谷のおばあちゃん(義母)から「天使のような人だわ(褒め言葉?)」と言われていました。
それとおっちょこちょいというかマイペースな面もあり、特許の裁判でアメリカに行った時には残飯に犬(麻薬犬)がよってきているのを見て「やっぱり犬が好きな人はわかるんだなー」と言っていたら拘束されたそうです。(もちろん逮捕はされていませんよ)

EPISODE-03

やさしいおじいちゃんでした。

孫 水谷真史

昔、家族皆で八王子のうかい鳥山という料亭に行った時、何とか孫の僕にホタルをとってあげようと必死になるあまり池に落ち、お店の人に半纏を借りて恥ずかしそうに帰ってきたのを覚えています。
ひょうきんでもあり、よくドライブ中に「は~ら~がへった~、は~ら~がへった~、もーれつは~らへった~、タイヤでもハンドルでも食べたくなっちゃった~」などと勝手な替え歌を歌っていました。